佐久戦国記 〜城編〜
- 佐久の城 -
海尻城 南牧村海尻
前山城 佐久市前山
小諸城 小諸市古城
 
城編インデックス

佐久戦国年表
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『小諸城』

山本勘助縄張り?の古城

名称 小諸城
築城者 武田信玄
築城年 不明
城の種類 平山城
遺構 大手門、三の門、石垣、空堀、曲輪
(大手門、三の門は国の重要文化財)
所在地 長野県小諸市古城
アクセス しなの鉄道&JR小海線・小諸駅から徒歩5分

■歴史・伝承

 「平家物語」などに登場する小室光兼がこの地に館を築いたのが始まりのようだ。その後、南北朝時代には小笠原氏族・大井氏の支配するところとなり、戦国時代になると大井光忠が鍋蓋城を、その子・光為が乙女坂城(白鶴城・小諸城二の丸)を築いた。この二城も天文23年(1554)には武田氏の侵攻によって落城する。
 武田氏滅亡後は織田家の滝川一益の所領となるが、しばらくして本能寺の変が起き、北条氏との戦に破れた一益は伊勢に落ち延び、北条家の大道寺政繁が城主となる。そして小諸を含む佐久は、信濃、甲斐を手に入れようととする北条氏と徳川氏の勢力争いの場となっていく。結局、北条氏直と徳川家康の和睦によって小諸城は家康に属することとなり、依田信蕃の子・松平康国が城主となった。天正18年(1590)には北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、家康は関東に移封となる。松平康国の戦死によって城を継いでいた弟・康勝も上野国藤岡へと移つり、小諸5万石は仙石秀久に与えられる。
 江戸時代に入り仙石氏が上田に移封されると、関東の入り口に位置することから徳川家の直轄となるが、寛永元年(1624)からは徳川譜代の大名が城主を勤めるようになり、元禄15年(1702)に牧野康重が一万五千石で入り明治まで続いていく。

「山本勘助の縄張り?」
 鍋蓋城、乙女坂城を攻略した武田信玄はこの地を東信濃の拠点とし、山本勘助と馬場信春に築城を命じたという。それが現在の小諸城の原型となっている。全国でも珍しい城下町よりも低い場所にあり、「穴城」といわれる。浅間山の火山灰でできた崩れやすい断崖を利用した堅固な守りの城である。

「仙石秀久が力を注いだ城郭」
 小田原城攻めの功績を認められた仙石秀久は、天正18年(1590)豊臣秀吉から小諸5万石を与えられた。秀久とその子・忠政は天守、大手門、三の門を建てるなど城と城下町の整備に力を注ぎ、現在の小諸城となっている。


 三の門は元和元年(1615)に建てられたが、寛保2年(1742)に洪水で流されてしまう。現在あるのは明和2年(1765)に再建されたもの。現在は懐古園の正門となっており、徳川家達の筆による「懐古園」の額が掛かっている。

 写真は三の門の塀。矢狭間、鉄砲狭間が設けられている。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠は、ここから真田昌幸の上田城を攻略しようとし、関ヶ原に遅参してしまう。写真は秀忠が宿営したという「二の丸」址。ここにあった石垣は明治4年(1871)に北国街道の整備に用いられ、その後は火山灰の崖のままであったが、昭和59年(1984)に復元された。

 武器庫などがあった南丸址。大きな石は「鶯石」と呼ばれ、城主が通るとウグイスの鳴き声がしたという。

 天守台の野面積の石垣。近くには寛保の大洪水の後に掘られたという、城内唯一の井戸「荒神井戸」がある。

 馬場から天守台を見上げる。三層の天守があったが、寛永3年(1626)落雷により焼失してしまう。馬場にはたくさんの桜が植えられており、花見シーズンは観光客で賑わっている。

 本丸址には明治13年(1880)に「懐古神社」が建てられた。「懐古園の碑」は勝海舟の筆によるもの。

 懐古神社の脇にある「鏡石」。1面が鏡のようにツルツルに磨かれている。山本勘助が愛用したというが・・・。

 園内には島崎藤村や若山牧水の碑の他、藤村記念館、郷土博物館などがある。左の写真は水の手展望台そばの「藤村詩碑」。右は水の手展望台から眺める千曲川。

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