「平家物語」などに登場する小室光兼がこの地に館を築いたのが始まりのようだ。その後、南北朝時代には小笠原氏族・大井氏の支配するところとなり、戦国時代になると大井光忠が鍋蓋城を、その子・光為が乙女坂城(白鶴城・小諸城二の丸)を築いた。この二城も天文23年(1554)には武田氏の侵攻によって落城する。
武田氏滅亡後は織田家の滝川一益の所領となるが、しばらくして本能寺の変が起き、北条氏との戦に破れた一益は伊勢に落ち延び、北条家の大道寺政繁が城主となる。そして小諸を含む佐久は、信濃、甲斐を手に入れようととする北条氏と徳川氏の勢力争いの場となっていく。結局、北条氏直と徳川家康の和睦によって小諸城は家康に属することとなり、依田信蕃の子・松平康国が城主となった。天正18年(1590)には北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、家康は関東に移封となる。松平康国の戦死によって城を継いでいた弟・康勝も上野国藤岡へと移つり、小諸5万石は仙石秀久に与えられる。
江戸時代に入り仙石氏が上田に移封されると、関東の入り口に位置することから徳川家の直轄となるが、寛永元年(1624)からは徳川譜代の大名が城主を勤めるようになり、元禄15年(1702)に牧野康重が一万五千石で入り明治まで続いていく。
「山本勘助の縄張り?」
鍋蓋城、乙女坂城を攻略した武田信玄はこの地を東信濃の拠点とし、山本勘助と馬場信春に築城を命じたという。それが現在の小諸城の原型となっている。全国でも珍しい城下町よりも低い場所にあり、「穴城」といわれる。浅間山の火山灰でできた崩れやすい断崖を利用した堅固な守りの城である。
「仙石秀久が力を注いだ城郭」
小田原城攻めの功績を認められた仙石秀久は、天正18年(1590)豊臣秀吉から小諸5万石を与えられた。秀久とその子・忠政は天守、大手門、三の門を建てるなど城と城下町の整備に力を注ぎ、現在の小諸城となっている。 |