「南佐久郡誌」によれば、前山城主・伴野氏の家臣である井出長門守の居城だというが確証はない。永正大永(1504〜)から甲信の争いがあるので、それに備えるために築かれたと思われる。江戸時代末には城の付近から城の守護として埋められた四天王像のうち他聞天、持国天の2体が発掘されたという。また、文政5年(1822)には「急々如律令」や梵字が彫られた丸石なども見つかっているようだ。
「甲陽軍鑑」
天文9年(1540)1月、武田の板垣信方は知略を以って海尻城を攻略した。主郭の守りは板垣信方、飯富兵部(虎昌)、甘利備前(虎秦)、小山田備中(昌行?)のくじ引きの結果、小山田が担当することになった。
同年12月、村上氏に通じた侍の反乱を受け、長坂左エ門(国清)の守る三郭、日向和(昌時?)の守る二郭は落とされ、主郭も包囲される。甲府に逃げ帰った兵の報告を聞いた武田晴信(信玄)はすぐさま出陣、70人余りの兵で敵兵313人を討ち村上勢を退けた。これが信州海尻合戦である。
「武臣列伝 真田昌幸の条」
武田信玄の信濃攻略に際し真田幸隆は信玄に出仕、弾正忠と称して海尻城を守った。天文15年(1546)12月、村上義清の部下・須田親満らが5000の兵で海尻城を囲む。敵の多さに勝つ見込みはないと考えた幸隆は降伏、城を明け渡した。幸隆は10人余りの兵で更科を目指したが、あまりの雪の深さに進むことができず、その夜海尻へと戻る。幸隆は二郭に放火、門衛を殺した。苦戦した村上勢は城を捨てて逃げ出し、幸隆は海尻城を奪還した。 |